大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 昭和48年(合わ)181号 判決 1976年1月29日

主文

被告人は無罪。

理由

第一公訴事実

本件公訴事実は、

被告人は、増渕利行らが、治安を妨げ、かつ、警察庁長官後藤田正晴、新東京国際空港公団総裁今井栄文等他人を殺害する目的をもつて、弁当箱に塩素酸ナトリウム・クロム酸ナトリウム・砂糖などを充填し、これに手製雷管・乾電池・手製スイッチなどを用いた起爆装置を結合させ、これらを収納した箱の包装をとくことなどにより爆発する装置を施した爆発物二個を、昭和四六年一〇月一八日午前一〇時三〇分すぎころ、東京都港区西新橋一丁目三番一二号日石本館内郵便局において前記後藤田正晴、同今井栄文各宛小包郵便物として受け付けさせ、同郵便局員星野栄らにおいてこれらを取扱中同日午前一〇時四〇分ころ爆発するにいたらしめて爆発物を使用するとともに、右爆発により右星野栄に対し加療約四〇日を要する顔面・右耳介部第一度熱傷、右上肢・胸部第二度熱傷の傷害を負わせたが、同人を殺害するにいたらなかつた際、右増渕らが前記各犯行を行うものであることの情を知りながら、同月一五日ころ同都杉並区上荻一丁目一三番三号喫茶店「サン」において、右増渕らから、同人らが前記爆発物を右郵便局から郵送したうえ逃走し、かつ、犯跡を隠ぺいするための輸送の便宜を提供するよう依頼をうけるや、右増渕らを同郵便局付近から逃走させ、かつ、同人らの犯跡を隠ぺいするため、同人らを同郵便局付近第一ホテル前より千葉県船橋市習志野面まで輸送することを承諾し、もつて、右増渕らの前記各犯行を容易ならしめてこれを幇助したものである。

というにある。

第二本件公判の経過

昭和四八年六月二九日の本件第一回公判期日において、被告人は被告事件に対する陳述の際、「本件爆発物について、どういうもので造つたか、どのように爆発する装置をしたものか、その内容は知らないが、その他の事実は起訴状記載のとおり相違ない」旨本件公訴事実を認め、検察官は続く冒頭陳述において要旨「増渕利行は、かねてより、革命の前段階として社会不安を招来させることが必要であり、その手段方法としては爆弾闘争が効果的であると考え、昭和四六年六月ころから、爆弾を収納した外箱の蓋をあけ、あるいは外箱の包装をとくことにより爆発する装置を施した爆発物を、権力機関の要人の自宅に小包郵便物として郵送して爆発させ、相手方ら他人を殺害するとともに社会不安を惹起させようと決意し、同年九月下旬ころまでの間、堀秀夫、江口良子、前林則子、榎下一雄、中村隆治に右犯行に加担するよう説得し、同人らもこれを承諾して共謀が成立し、そのころ増渕、堀は右爆弾の郵送先を起訴状記載の両名とし、発送すべき郵便局を同都港区西新橋一丁目三番一二号日石本館内郵便局とすることを決定し、同年一〇月一二日ころの夜、同都世田谷区給田四丁目一九番一一号高橋荘増渕方居室において、増渕、堀、江口、前林、榎下らが集まつて爆発物二個を製造し、その構造は公訴事実記載のとおりであり、増渕、堀は協議のうえ、両爆弾を同月一八日江口、前林をして前記郵便局より小包郵便物として差し出させることとしたが、これは江口が同日大阪市内へ出張のため東京駅より出発することとなつており、また前林も同日千葉県陸運事務所習志野支所にて自動車の登録手続を行うこととしていたので、後日本件犯行発覚の際現場にいなかつた旨弁解できるように配慮したものであり、更に増渕、堀は同月一五日ころの午後八時ころ、榎下、中村、被告人を同都杉並区上荻一丁目一三番三号喫茶店「サン」に集合させ、榎下に対しては、同人の勤務先である同区上荻二丁目一八番一一号所在の白山自動車有限会社を午前九時ころ出発し、新宿中央公園の首都高速道路入口付近まで、中村に対しては、午前九時四〇分ころ、新宿中央公園付近で待ち合わせ、同所から日石本館を経て新橋第一ホテル付近まで、被告人に対しては、午前一〇時三〇分ころ、新橋第一ホテル付近で待ち合わせ、爆弾の差し出しを終わつた前林を同乗させ、千葉県船橋市習志野台まで、それぞれ自動車を運転し、爆弾およびその発送担当者を運搬するよう説得、依頼し、被告人らもこれを承諾し、そのころ前記爆弾二個を榎下に指示して前記白山自動車において保管させ、同月一八日午前九時ころ、増渕、江口は榎下の運転する自動車に前記爆弾二個の入つた手提袋を所持して同乗し、前記白山自動車前付近を出発し、午前九時四〇分ころ新宿中央公園の高速道路入口付近で中村運転の自動車に乗り継ぎ、霞が関、虎の門を経て、午前一〇時二〇分ころ、日石本館ビル前付近に到着し、同ビル前歩道上で待機していた前林と合流し、午前一〇時三〇分すぎころ、江口、前林両名は右手提袋を持つて前記日石本館内郵便局窓口にいたり、右爆弾二個を後藤田正晴、今井栄文各宛の小包郵便物として差し出し、これを同係員星野栄らに受け付けさせたうえ、退出し、中村運転車両で同都港区新橋一丁目二番六号新橋第一ホテル前路上へ赴き、一方被告人は同日増渕らとの前記約束に従つて、勤務先の同都中央区月島四丁目七番一五号所在の月島自動車有限会社から自動車を運転して、午前一〇時三〇分ころ、前記新橋第一ホテル前路上に到着し、前林らが中村運転の自動車で逃走してくるのを待ち、午前一〇時四〇分すぎころ、中村運転の自動車が到着し、増渕、前林が下車してきたので、右両名を自己の自動車に乗せ、前林の案内により、千葉県船橋習志野台所在の千葉県陸運事務所習志野支所(以下習志野陸運事務所と略称する。)まで運搬した。」と敷衍し、被告人も検察官、弁護人の質問に対して、後述の如くほぼ検察官の主張にそう供述をなし、証拠調は結了したが、第二回公判期日において、検察官より「中村は、同人に対する被告事件の法廷で、搬送行為の一部について否認するに至り、その供述の変遷の理由等を検討した結果、相当な理由があると思料されるので、被告人が中村から引継いで増渕、前林を搬送したとの主張は、被告人が氏名不詳者から引継いだものであると変更する。」と釈明があつて、検察官の前記主張は変更され、被告人も第三回公判期日において、「実際は起訴状記載の事実は存在しない。第一回公判期日において認めるような供述をしたのは、少しでも早く仕事ができる状態にするため、親、兄弟、弁護人と相談してそのようなことにしたものである。」旨供述して、一転否認するに至り、以後本件は後述する如く、被告人の「サン」における謀議への参加の有無とそれに基づく搬送行為加担の有無をめぐつて、共犯者および被告人の捜査段階における供述の信用性について、検察官、弁護人双方の主張立証が継続されたという特異な経過を辿つた事案である。

第三証拠によつて認定し得る事実

昭和四六年一〇月一八日午前一〇時三〇分すぎころ、東京都港区西新橋一丁目三番一二号日石本館内郵便局において、弁当箱に塩素酸ナトリウム・クロム酸ナトリウム・砂糖等を充填し、これに手製雷管・乾電地・手製スイッチ等を用いた起爆装置を結合させ、これらを収納した箱の包装をとくことにより爆発する装置を施した爆発物二個が、二人連れの女子によつて、警察庁長官後藤田正晴、新東京国際空港公団総裁今井栄文宛小包郵便物として受け付けられ、同郵便局員星野栄らにおいてこれらを取扱中、同日午前一〇時四〇分ころ爆発し、右爆発により星野栄に対し加療約四〇日を要する顔面・右耳介部第一度熱傷、右上肢・胸部第二度熱傷の傷害を負わせたことについてては、星野栄の検察官に対する供述調書、市来隼人の司法警察員に対する供述調書、警視庁科学検査所副参事荻原嘉光作成の鑑定書、司法警察員作成の「爆弾の構造等に関する捜査報告書」と題する書面(いずれも騰本であつて、以後掲げる書証についても特に断りのない限り騰本である。)により、これを認めることができ、また被告人らにおいても、この事実自体は争つていないところである(以下本件事件を日石事件という。)。

第四争点に対する判断

一  被告人に対する本件公訴事実が認められるためには、増渕ら正犯者による日石事件に関する実行行為の存在とともに、被告人が「サン」での謀議に参加し、かつ、その際公訴事実記載のとおりの幇助行為に及んだ事実の存在が認定し得ることを必要とするのは検察官の指摘するとおりである。

しかして、本件において検察官は、前記のとおり被告人が「サン」における謀議に基づき、それを実現するための手段として、日石事件の当日、新橋第一ホテル付近から習志野台所在の習志野陸運事務所まで、増渕、前林の両名を自己の運転するセリカで搬送した旨主張しているところであり、「サン」における謀議と、これに基づく右搬送行為はそれ自体訴因の内容をなすものであるか否かはともかくとして、事案の性質上、表裏一体の関係にあることは明らかであつて、若し、被告人による搬送行為が証拠上認められるとすれば、関係者の供述と相俟つて被告人が「サン」における謀議に参加した事実を推認するに十分であり、反面搬送行為が証拠上認められないとすれば、延いて「サン」における謀議への参加の事実も疑うに足りる相当な理由があるというも過言ではない。その意味において、本件公判審理に際し、検察官と弁護人の間において、被告人が「サン」における謀議に参加したか否かの点もさることながら、搬送行為の有無をめぐつて激しい攻撃、防禦が尽くされたのも蓋し当然というべきである。

ところで、本件事案の特質として指摘し得ることは、事件の発生と被告人及び共犯者に対する捜査官の取調開始との間に、およそ一年半近くの日時の経過が存したこともあつて、被告人らと日石事件の結びつきを直接証明する資料としては、各共犯者の捜査段階における供述及び公判段階におけるごく一部の供述以外にはきわめて乏しく、殊に被告人の「サン」における謀議と、これに基づく搬送行為に関する証拠としては、各共犯者の供述及び被告人の供述のみといつても過言ではない。

そして、直接犯行に関与したとされる者の供述は、若しそれが任意になされ、かつ事実をありのままに述べたものとすれば、事件における直接体験者の供述として、その信用性は高く評価して差支えないが、反面、人の知覚、記憶には錯誤を生ずることは避け難く、かつ共犯者相互の利害関係、感情の対立等の事情もからみ、常に真実を述べるとはいい難いことも容易に首肯し得るところである。従つて各共犯者の供述の信用性を判断するにあたつては、右のような事情を念頭におきつつ慎重に考慮する必要があり、また当該証拠の価値を評価するにあたつても、単に表面的、形式的な意味の把握ないし比較に止まることなく、より深く総合的に考察すべきであることは、検察官の指摘を俟つまでもなく当然のことといわなければならない。

二各共犯者は捜査段階において本件に関し詳細な自白をなして多数の供述調書が作成され、被告人も取調に際しては、一時被疑事実を否認したときもあつたが、その反面詳細な自白もなしており、これに対しては多数の自白調書も作成され、さらに前示のとおり第一回公判期日においても自白を続けているものであつて、当裁判所が証拠として取調べた各共犯者の供述調書並びに被告人の捜査段階における供述調書および第一回公判期日における供述のうち本件に直接かかわる枢要部分の要旨を指摘すれば概ね以下のとおりである。

(一)  増渕利行

1 昭和四八年四月二五日付検察官に対する供述調書(以下四月二五日付検面調書の如く記載する。)

昭和四六年一〇月一六日ころの午後八時ころ、自分は自山自動車の二階の応接室に行き、そこから荻窪駅付近の喫茶店「サン」に行つた。喫茶店「サン」に集まつたのは自分、堀、中村隆治、榎下、坂本の五名である。自分は皆に一〇月一八日に新橋の日石内郵便局から小包爆弾を送ることにしたことを話して協力を求めたうえ、自分と堀から三段階の乗り継ぎのことを話した。榎下に対しては一八日午前九時ころ白山自動車から新宿の高速道路の入口付近の公園まで自分と江口を送つてもらいたいこと、中村に対しては午前九時半ころその公園のところから新橋まで自分と江口を送つてもらいたいこと、坂本に対しては午前一〇時半ころ新橋から習志野まで前林を送つてもらいたいと頼むと、榎下、中村、坂本とも了解して引き受けてくれた。喫茶店「サン」には一時間位いて別れた。(翌々一八日は)、自分の服装は茶色の背広上下に白のワイシャツを着てネクタイをしめ、黒の靴を履いて変装用のメガネをかけていた。自分は歩いて白山自動車に行つたが午前九時ころに着き、江口もそのころ白山自動車に来た。自分は榎下から爆弾二個入りの手提紙袋を受け取つたが、その紙袋の中に紺色の事務服二着が入つていた。そして白山自動車の付近から榎下運転のスバルサンバーの助手席に自分が乗り、後部座席に江口が乗り出発した。爆弾の入つた紙手提袋は自分がひざの上に置いて持つていた。環状八号線を通り、青梅街道に出て新宿の高速道路入口付近の公園付近に行くと、中村隆治運転の自動車が待つており、自分はその助手席に爆弾を持つて乗り、江口が後部座席に乗り出発した。榎下はすぐ車を運転して引き返したと思う。高速道路を通り霞が関の高速道路出口から出て日石ビル方向に進行したが、日石ビルの手前二、三〇メートルのところに前林則子が待つていたので、そこで中村が車を止めた。前林が車の中に入つたが、自分が爆弾の入つた紙手提袋から事務服二着を出して前林と江口に渡すと二人はそれをパッと着た。自分は前林と江口に爆弾小包を一個ずつ渡した。前林と江口は車から降り、日石郵便局にそれを出しに行つた。自分は助手席に座つて待つていた。そして一五分位経つたころ前林と江口が戻つて来た。そのころ坂本運転の乗用車がその付近に来ており、前林が坂本運転の自動車に乗り、習志野に向けて出発し、江口が中村運転の自動車の後部座席に乗り、東京駅へ向けて出発した。(自分は東京駅で)車を降りてから中央線で荻窪駅に出てバスで給田に行き高橋荘に戻つた。

2 四月二九日付検面調書

日石ビル付近で坂本運転の車とスイッチしたと話していたがこれは記憶違いであり、前林、江口が郵便局に小包爆弾を出して戻つて来てから、前林、江口とも中村隆治の車に乗つた。中村はすぐ車を新橋方向に走らせたが、前林と江口は事務服を車の中で脱ぎ、それを車の中に置いた。そして場所は、はつきり記憶していないが、新橋付近で車が止められ、待つていた坂本運転の乗用車に自分と前林が乗り替え出発した。江口は中村の車で東京駅に行つたのか新橋駅に行つたのか不明である。自分と前林が乗つた坂本運転の乗用車は銀座付近の入口から高速道路に入り、京葉道路にぬけ、習志野に行き、陸運事務所まで送つてもらつた。坂本は陸運事務所からすぐ引き返した。

(二)  中村隆治

1 四月二七日付検面調書

一〇月一八日日石ビルに小包爆弾を運んだ状況はこれまで供述したとおり相違ない。先づ事務服について、思い出してみると日石ビルの手前に停車したとき、歩道上で待つていた前林がそのとき既に紺色の事務服を着ていたと思う。乗り継ぎの場所は今まで説明してきたとおり、新橋の第一ホテルのそばであつたことは相違ない。よく思い出してみると日石ビル手前で増渕、前林、江口の三人を乗せてから新橋方向に向かい日石ビル前の大きな交差点を突切つて、それから増渕の指示で左の路地へ入つて、更に右へ曲つた記憶がある。それから増渕の指示でまた曲つたような気がする。坂本のセリカのところへ到着するまでガードを潜つた記憶はない。そして赤いセリカが停つているのを自分でみつけてそのうしろに停車した。三人が自分の車から降りて、そのため自分が誰も乗せずに一人で帰途についたことは相違ない。

2 四月二九日付検面調書

(一〇月一六日喫茶店「サン」に集まつた経緯は)榎下からの電話連絡で白山自動車へタクシーで行くと、榎下と坂本がおり、堀が「サン」で待つていると榎下がいうので三人で歩いて「サン」へ行つた。三人で「サン」へ行くと店の奥の方に堀と増渕が来ていた。

3 五月二日付検面調書

(昭和四六年一〇月一八日)午前九時ごろ、自分は家のものには、黙つて家を抜け出て家の前に置いてあるサニークーペを運転し新宿中央公園前に向つた。榎下の車との待合せ時間は午前九時三〇分であつたから、三〇分あれば行けるだろうと思つていた。待合せ場所は、「首都高速入口の中央公園前」ということであつた。新宿中央公園前の首都高速入口に着いたのは午前九時四〇分ころだつたと思う。榎下のスバルサンバーが停つていて、榎下は運転席におり、増渕と江口がスバルサンバーの横に立つていた。自分は榎下の車のうしろに車をつけると、増渕がドアを開けて「じゃ頼むよ」といつて助手席のシートを前に倒し江口を後部座席に乗せ続いて増渕が助手席に乗つた。増渕が「高速に入つてくれ」と指示したので、自分は榎下の車と別れて首都高速に入つた。新宿料金所手前の初台方面からの合流点付近が車が渋滞していて、停つたり動いたりのノロノロ運転でかなり時間を費した。料金所で自分が二〇〇円の料金を払つて霞が関方向へ向つたが、料金所を出てから車の数は多かつたが、車の流れはスムーズで時速約六〇粁位で進行した。千代田トンネルの分岐点を増渕の指示で右折し虎の門交差点に来たとき、増渕が「左へ曲れ」というので左折し、そのまま直進して大きな交差点を通過し、日石ビル手前の歩道橋の横に来ると、増渕が「停めてくれ」というので車をガードレールのそばにつけて停車した。九時四〇分に新宿中央公園を出発したとして三〇分を要したとすると日石ビルに到着したのが一〇時一〇分ごろということになる。増渕と江口は車から降りるとその近くに待つていた前林と一緒になり、歩道上で何か話していたが、それから三人は日石ビル入口の方へ歩いて行き、途中で増渕が引き返してきて車のそばであちこちを見廻しながら待つていた。前林と江口は日石ビルの入口から中へ入つて行つた。二人が戻つてきたのは一五分か二〇分位経つてからであつた。三人が乗り込むと自分はすぐ車を発進させ、日石前の大きな交差点を突切り、増渕の「左へ曲れ」という指示で左折して路地へ入り、更に第一ホテルの角で増渕の「右へ曲れ」という指示で右折し、第一ホテル前のやや広くなつたところでガードの近くの左側にビルのあるところに出ると、ビルの前に坂本の赤いセリカが見えたので、そのうしろに車を停車させた。日石ビル前を出てから停車するまでの時間は五、六分位と思うので停車した時刻は午前一〇時三五分から四〇分の間ころではなかつたかと思う。車から降りた三人は自分の車の横で何か話し合つていたが、増渕が手を挙げてもう行つてもよいという合図をしたので、自分は少し車をバックさせ坂本のセリカの右横をとおつて直進し大通りへ出た。当時の自分の服装は茶色トックリセーターで、ズボンはどんなズボンだつたか記憶していない。増渕は黒ぽいダークブルーのようなズボンと白のワイシャツ、ノーネクタイと淡いグレーのブレザーだつたと思う。前林は紺の事務服と下はスカートをはいていたが、色ははつきりしない。三人の所持品は増渕は何も持つておらず、江口が新宿中央公園で自分の車に乗りこむとき手提式の大きな紙袋を提げていた。

(三)  榎下一雄

1 四月二〇日付検面調書

一〇月一五日の昼すぎころ、堀が白山自動車にいる自分に電話をかけてきた。そして堀は「どうしても休めないから何んとか行つてくれないか。」と一八日に増渕達を車に乗せて新橋の郵便局まで連れて行つてくれるよう頼んだ。自分が「とても習志野まで行つて帰つてくるのは不可能だ。」というと、堀が「中村と坂本にも聞いてみてくれないか。」といつたので自分は「あの二人も仕事がある。無理だ。」と答えた。すると堀は「一度相談してみたいから午後八時にくるから喫茶店「サン」に彼らをさそつておいてくれ。」といつた。そこで自分は中村隆治と坂本勝治にそれぞれ電話で喫茶店「サン」に午後八時に来るよう頼んだ。その日午後八時ころ堀がカローラスプリンターに増渕を乗せて白山自動車にやつて来た。自分、増渕、堀の三人が喫茶店「サン」に行つてしばらく待つていると中村、坂本がやつて来た。店内の一つのテーブルの前に五人が座つてから増渕が皆に「誰か行ける奴はいないか。」と聞いた。皆が渋つていると増渕が「それならいつそうのこと皆で一、二時間ずつ都合つけろ、リレー式にしよう。」といつて、自分に「どの位時間をとれるか。」と聞いたので自分は「朝でも一時間位しか時間はとれない。」と答えた。すると増渕は「新宿あたりまで丁度いいだろう。」といい、中村に対しては「新宿から新橋までやつてくれ。」といい、坂本に対しては「会社が月島だから新橋から習志野までとばしてくれ。」といつた。皆があまり良い顔をしないと増渕が「ここまでやれば同罪だ、捕まれば皆死刑だ。」といつたので自分、中村、坂本も渋々引受けた。その後増渕が皆に「ベト(榎下のこと、以下同じ)のところに俺、かあちゃん(前林のこと、以下同じ)、江口が九時ごろ行く。中村は新宿の高速道路の下に九時半ごろいてくれ、坂本は場所と時間をあらためてガリ(堀のこと)が連絡する。」といつて皆もこれを承知した。喫茶店「サン」で三、四〇分話して別れた。

2 四月二九日付検面調書

自分はその日(一〇月一五日ごろ)堀から午後八時に「サン」に集まるよう指示され、中村の自宅と坂本の勤務先の月島自動車に電話をかけて、午後八時ころ喫茶店「サンに集まるよう指示した。自分が中村、坂本に連絡した内容は、「とうちゃん(増渕のこと、以下同じ)と堀が何か頼みがあるそうだ。「サン」に来てくれと堀から連絡があつた。午後八時ころ堀が来るといつていた。」というものであつた。その日午後八時ころ堀がカローラスプリンターに増渕と江口を乗せて白山自動車にやつてきた。増渕、堀、江口、自分が連れだつて歩いて「サン」に行き、暫く待つていると中村と坂本が店に入つて来たので一八日の郵送の打合せをしたように思う。「サン」での話し合いの結果、自分が増渕と江口を白山自動車から新宿まで乗せて行き、中村が新宿で引継いてで新橋まで増渕と江口を乗せて行き、江口と前林が爆弾を郵便局に出してから、江口は東京駅から関西方面に行き、坂本が前林を乗せて習志野の陸運事務所に行くことが決まつた。

3 五月二日付検面調書

(一〇月一五日ころの午後八時ころ「サン」に)皆がそろつて一つのテーブルの囲りに座つてから、増渕が「この前作つたビックリ爆弾を一八日に出すことになつた。かあちゃんと江口が新橋の郵便局から出す。俺は外で待つている。江口は出したあとで新橋から東京駅に行き、関西に行くことになつている。かあちゃんはアリバイを作るためにベトから買つた車の手続をしに習志野に行く。新橋を通つて習志野まで往復してもらいたい。誰が運ぶのか今のところ決つてない。誰か行つてもらえる者はいないか。」と聞いた。それに対して自分、中村、坂本は黙つていて「うん」とはいわなかつた。すると、増渕は一人一人に当日新橋を通つて習志野まで行けるかどうか確認した。自分は仕事が忙しいことを理由にして、「新橋まで往復するのもできないから勘弁してくれ。」といい、中村は「それは一寸無理だ。」といい、坂本は「習志野まで行つてくるわけにはいかない。」といつて、いずれも渋つた。自分ら三人が渋つていると、増渕が暫く考えていてから、自分、中村、坂本に「どの位までなら時間がとれる。」と一人一人聞いた。その問に対しても自分ら三人は「そのときになつてみないと一寸わからない。」といつて、いずれも爆弾を郵便局まで運ぶのを渋るような発言をした。すると増渕が「皆一、二時間ずつあけろよ。」といつた。増渕が次に「いつそのことリレー式にしちやおう。そうすればあとで捕まつた場合も皆アリバイができるんじやないか。」といつたのでその意味がわかつた。増渕のこの提案に対しても皆が黙つていると、増渕が自分に「ベトはどの位時間あけられるか。」と聞いたので「せいぜい一時間位しかとれない。」と答えると、増渕が「往復一時間でどこまで行けるんだ。」と聞いてきた。増渕が「それじや朝、俺達がベトの会社に行く。新宿から高速に上つちやおう。高速じや乗り継ぎができないから高速の入口までベトやれ。」といつた。増渕は中村に対して、「距離からいつて中村が二番目だな、高速の入口から新橋までやつてくれ。」といつた。さらに増渕は坂本に「一旦会社に出てからならば月島だと新橋に近いだろう、一番長い距離で大変だが京葉道路を使えば習志野までそんなにたいしたことはないんだろう。」といつた。増渕からこのようにいわれて自分、中村、坂本も反対できず、増渕の申し出を承知してしまつた。増渕が自分に「俺と江口が朝九時ころ行くよ。それからすぐ新宿に行つてくれ、そこで中村と交代する。」といつた。増渕が自分に「九時ころ出発して新宿までどの位かかるか。」と聞いたので、自分は「三〇分位だろう。」と答えた。すると増渕は中村に「じや九時半だ。新宿の高速あたりで待つていろ。」といい、中村は「一寸きびしいが何んとかやつてみる。」と答えた。増渕は坂本に対しては、「会社が近いから新橋まですぐ来れるだろう。一〇時か一〇時半位だなあ、その辺もつと調べて時間と場所をガリにでも連絡させるよ。」といつた。

4 四月一二日付検面調書

一〇月二〇日か二一日ころの午後九時ころ、自分は中野の坂本の部屋を訪れ、一〇月一八日当日の坂本の行動をきいた。自分が坂本に「堀から頼まれて習志野まで行つたのか。」と聞くと、坂本も自分が新宿まで増渕、江口両名を送つたことを知つており、「堀から頼まれて、一八日の朝新橋駅の近くでとうちやん、かあちやんと待合せて、習志野まで送つてきた。二人を降してふつとんで帰つてきた。」といつた。自分が「何時ころ帰つて来た。」ときくと、坂本は「二時ころには会社に戻つた。」といつていた。自分は「中村と向うで会つたのか。」ときくと、坂本は「会わなかつた。」といつていた。自分は「爆弾を出しに行つたのは知つていたのか。」ときくと、坂本は「前に堀からきいていたし、車の中でとうちやんからきいた。」と答えた。

(四)  堀秀夫

四月二七日付検面調書

日石郵便局の事件のあつた前の週に、自分が増渕にいわれて、榎下に新橋へ行つてくれるよう頼んだこと、その後増渕にいわれて榎下に爆弾を預けたことは前回話したとおりである。そのころ荻窪の喫茶店で、増渕、榎下、中村隆治、坂本、自分の五人で新橋へ爆弾を運ぶ手筈を確認したことがある。これは自分が榎下に新橋へ行つてくれるよう頼んでから後であるが、榎下に爆弾を預ける前であつたかその後であつたか順序がはつきりしない。白山自動車へ行つて榎下と(増渕と)三人で応接間にいるとそこへ中村隆治がやつて来た。中村が来て四人になると、増渕が席を変ようというので、四人でその応接間を出て下へ降りた。道路に出たところで坂本がやつて来て五人になつた。坂本も加わつて五人になつてから歩いて荻窪駅の方へ行つた。そして環状八号線を駅の方に渡つて一〇〇メートル程度行つたところにあるスナツク風喫茶店に入つた。増渕から、榎下、中村、坂本の三人に当日の車の運転について指示があつたが、指示の細かい内容については記憶していない。

(五)  被告人

1 四月二三日付検面調書

日石事件の二、三日前また榎さん(榎下のこと、以下同じ)から電話があつて、「今晩「サン」へ来てくれ」といわれた。このときも用事は爆弾を使う闘争の手伝いを頼むつもりだと思つたが、断わり切れない気持になつて、行くことにした。その晩は白山自動車に車を置いて八時ころ「サン」に着いた。「サン」にはとうちやん、榎さん、中村隆治、堀がいた。最初しばらく雑談してから、とうちやんと堀とが「大事なものを運ぶんだが我々に協力してくれ。」といい出した。自分はこの大事なものというのが爆弾だなと思つた。それは前からこの二人が爆弾を使つて革命をしなければならないというようなことをいつていたからである。二人とも真剣そのものの様子であつた。爆弾という言葉は具体的に出たかどうかはつきりしない。とうちやんと堀は榎さん、中村、自分の三人に向つて「お前達が運転してくれ。榎下が荻窪から新宿まで。中村が新宿から新橋まで、坂本は新橋から習志野まで。」とそれぞれ分担を区切つて押しつけるようないい方で任務をいいつけた。真剣な調子で押しつけるようにいわれたので自分もいやだとは思つたが口に出して断わるわけにはいかず、榎下、中村の二人も断わるようなことはいわないで、三人とも渋々承知してしまつた。自分には「大事なものを運んだ後、女の人を一人連れて行つてくれ。」というような説明が加えられたので、これはアリバイ作りをするのかなと思つた。そのときには郵便局ということは出なかつたと思う。それぞれ待合せをする時間と場所をいわれたが、時間については一〇時から一一時の間だつたと覚えている。場所については新橋のガード寄りという記憶がある。第一ホテルという名前が出たような気がする。習志野まで行く女の人の名前は聞いていなかつたが、向うの人もわかつているから行けばわかるといわれた。こうして車を運転する自分ら三人が皆承知をし、何時にどこで会うかまで決つたのでその日の打合せはそれで終り、自分は一人で戻つて来た。一〇月一八日はいつものとおり八時半から仕事をしていた。約束の時間に間に合うように仕事の途中から工場を出た。出るとき辻さんか久保田さんに行く先も帰る予定もいわずに、ただ「ちよつと出てきますから。」と声をかけて出て来た。その日特に忙しかつたとか暇だつたとかいう印象はない。また辻さん達から行かれては困るなどといわれたこともなかつた。自分は久保田運送に勤めている箕輪と二人で箕輪の買つた赤いセリカを使つているので、このときも久保田運送の車庫に行つてセリカを乗り出した。第一ホテルの前に着いたのは約束の時間の五分位前だつたと思う。道の左端に車を止め運転席に座つていたら五分位して見覚えのある中村のサニーが後ろからやつてきたのがわかつた。だからちようど約束の時間ころに来たことになる。中村の車からはとうちやんとかあちやんが降りてきて、二人でちよつと話したと思つたらすぐ自分の車へやつて来た。自分は振り向いて様子を見ていたが、中村の車は自分の車の後ろ六、七メートル位空けて停めていた。中村は降りては来なかつた。とうちやんとかあちやんが自分の車のそばへ来て「頼むね」というような声をかけて乗ろうとしているときに、中村の車が走り出し自分の車の右側を通り抜けて前へ行つた。通りすぎるとき中村がちよつと手をあげたような感じで、いつもする「やあ」というようなあいさつというか合図というか、ちよつとした身ぶりをするのがわかつた。自分は車から降りてドアを開けたりはしなかつたが、とうちやんが自分でドアを開け、自分が助手席の座席を倒してやつたら後ろの席に乗り、その後かあちやんが助手席に乗りこんで来た。かあちやんが紺色のような上つ張りを着ていたことは覚えているが、この上つ張りは多分乗つてすぐ脱いでしまつたと思う。二人が乗りこんだので車を発車させた。習志野の陸運事務所まで行つてくれと車の中であらためていわれた。とうちやんから「高速で行つてくれ。」といわれた。銀座ランプから高速に入つた。車の中でとうちやんはかあちやんに向い「大丈夫だろう。」といつたり「明日はどうなるのかな。」といつたりしていた。二人は車の中ではあまり話はしなかつた。京葉道路に入つてからかあちやんが教えてくれたので、いわれるように走つて行つたら一時間半位で陸運事務所へ着いた。とうちやん達は車から降りると「帰つてもいいよ。」というので、来た道を引き返し京葉道路に入り、首都高速は使わず、一時か一時半ごろ月島自動車に帰つた。その日の仕事は自分でうまくやりくりし、さしつかえは起らなかつた。

2 四月二五日付検面調書

(日石事件の二、三日前)榎さんからの電話があつて、仕事が終わつてから箕輪と一緒に使つている車で白山自動車まで行つた。白山自動車からは一人で歩いて行き、「サン」に着いたときには遅くなつたという感じを受けたことを覚えている。いた人はとうちやん、堀、中村隆治、榎さんの四人であつた。自分が行くともうほとんどすぐにとうちやんと堀から「我々に協力してくれ。」という話を始めた。榎さん、中村、自分がそれぞれ区域を分けられて運転をいいつけられた。初めから三人で次々と運転するという話で、中村も榎さんも「いやだ。」とか「なぜ三人でやるのだ。」などとはいわず、あるいは自分の来る前に何か説明を受けていたのかもしれないが、その場ですぐに承知していた。自分も話の様子から、とうちやんや堀がやろうとしている爆弾闘争の爆弾を運ばされるのはわかつており、いやだなと思つたが、「大事なものを運んだあと女の人を習志野まで連れて行つてくれ。」といわれたので、それならもう爆弾はなくなつたあとで事件に関係した人のアリバイ作りをするつもりだなあと思つた。とうちやん達のいい方が何か断わりづらい調子なので、気が進まないまま承知してしまつた。当時自分は習志野へ行く道は知らなかつたが、大体の見当はついたし、人を乗せて行くのだから道のわかつた人が来るのだろうと思つた。新橋の方は第一ホテルの前ということになつたが、第一ホテルなら月島自動車から行く道は考えてみればわかるので、これも別に図画を書いてもらうようなことはなかつた。一〇月一八日の約束の時間は今いろいろ考えると一〇時二〇分すぎのように思う。中村の車から降りたのはとうちやんとかあちやんの二人だつたと思う。もう一人いたかもしれないがはつきりしない。車の中でとうちやんとかあちやんはときどきぽつりぽつりと話をしていたが、かあちやんは自分にほとんど話しかけなかつた。ただ京葉道路に入つてからはいちいち道筋を教えてくれ「ここで出て下さい。」とか「次を左へ。」などといつた。とうちやんからは、高速で私がスピードを上げたときに、「もう急がなくてもいいから。」といわれた。習志野の陸運事務所へ着いたのは一一時半ちよつとすぎていたように思う。

3 第一回公判期日における供述

昭和四六年一〇月一五日ころ、榎下より月島自動車へ電話で呼び出しがあり、「サン」へ赴き、その席には増渕、堀、榎下、中村がおり、増渕、堀より榎下、中村、自分に対し日石事件当日の搬送を依頼され、三人とも渋つていると、榎下、中村に対しては増渕より、「ここまで参加したら、どうせばれたら死刑になるんだからやれ。」、自分に対しては、「これをやらないとよくない、お前のためにならない。」との各趣旨の発言があつたので、三人とも渋々承諾し、ここにリレー輸送の謀議が成立したが、「サン」では誰を乗せるのかはつきりわからなかつた。本件当日は、約束の時間に約束の場所へ行くと、中村の自動車がやつてきて、中村の自動車より増渕、前林が降りてきて被告人の自動車に乗り移り、自分は前林の指示どおりに走行して、二人を習志野陸運事務所に送つた。榎下より一度習志野陸運事務所のことを電話で尋ねられたことがあるが、それは自分らの仕事がたまたま陸運事務所にも関係あるので、そういうことで尋ねたのだと思う。

三以上共犯者の検察官に対する供述調書並びに被告人の検察官に対する供述調書および第一回公判期日における供述は、いずれもきわめて具体的かつ詳細であつて、前後の状況の描写はまさにその事実を直接体験した者でなければ表現し得ないような内容のものも含んでいるうえ、それ自体を比較して見る限り、いくらか食い違う点はあるものの、特に不合理な点とか看過し難い矛盾も見受けられず、これと証人石崎誠一、同根本宗彦、同栗田啓二の各当公判廷における供述および証人神崎武法に対する当裁判所の尋問調書によつて窺われる取調の状況を併せて観察する限り、被告人が昭和四六年一〇月一五日ころの午後八時ころ、「サン」における増渕らの本件日石事件に関する謀議に参加したうえ、増渕の依頼による搬送を承諾し、次いで右謀議に基づき、同月一八日午前一〇時四〇分すぎころ、新橋第一ホテル前付近において中村隆治から引継を受け、増渕、前林の両名を同所から習志野陸運事務所まで、自己の運転するセリカで搬送した事実は動かし難いように思われる。

四ところで、昭和四六年一〇月一八日午前九時四〇分ころ、新宿中央公園の首都高速道路入口付近において、榎下一雄から引継を受けて増渕、江口の両名を同所から日石本館前を経由して新橋第一ホテル付近まで、前林を日石本館前付近から新橋第一ホテル付近まで搬送し、新橋第一ホテル付近で被告人に引継いだとされ、かつ前記のとおり捜査官に対し、その際の状況について具体的かつ詳細な供述をしていた中村隆治は、その後右の事実を否定し、同日午前中は他の場所で運転免許学科試験を受験していた旨、アリバイの主張をなすに至り、その理由について、自分は真実右のような搬送はしていなかつたが、捜査官から、サニークーペが搬送に使用されているので、中村がやつていないのであれば弟がやつたのではないかと追及された、自分としては弟がやつた可能性もあると考え、家庭の事情も考慮して自分が搬送した旨認めることにした、ところが自分に対する第一回公判直前である昭和四八年六月中旬ころ被告人の取調官が来て、被告人は調書では自白しているが、雑談の際本当はやつていない旨洩しているが、本当のところはどうかと念を押された、それで自分の弁護人に対し、当日は自動車運転免許試験場へ行つている可能性があるので、弟のアリバイとともにその調査方を依頼した結果、双方のアリバイがともに判明したのでその主張をすることにした旨、当公判廷で供述している。そして同人の当公判廷における供述のほか、警視庁府中運転免許試験場長若林賢二作成の回答書によれば、日石事件の当日である昭和四六年一〇月一八日に、中村隆治は東京都府中市多磨町三丁目一番地の一所在の警視庁府中運転免許試験場において、午前九時二〇分ころから正午ころまでの間、運転免許学科試験を受験していた事実が認められる。

これによれば、中村隆治の日石事件当日における増渕らの搬送に関する前記詳細な供述はもとより、増渕利行、榎下一雄および被告人の右の点に関する一連の供述は、すべて事実と相違した虚偽のものと断ぜざるを得ない。

五前示のとおり、中村隆治のアリバイが成立したことに伴い、増渕利行、榎下一雄らも当公判廷において証人として尋問された際には、捜査段階における供述とは全面的に相反する供述をなすに至り、捜査段階における自白は、いずれも虚偽のものであつて、これは取調官の誘導、脅迫によつて心ならずもなしたものである旨弁解している。

ただ中村隆治については、自己の搬送については前示の経緯によつて全面的に否定しているものの、昭和四六年一〇月一五、六日ころ、榎下より呼出しの電話があつて、「サン」へ赴いことがある、その際「サン」に集まつた者は、増渕、堀、榎下、自分の四名は確実であるが、被告人がいたか否かについては明確な記憶がない、その際増渕より、免許証を有しているかどうか尋ねられたことはあるが、捜査段階で供述したような謀議に関する発言はなかつた、また日石事件後一週間位経過してから、夜、日大二高で増渕、堀、榎下、松村、自分が集まり、その席で金属ケースが作れないか、いいスイッチはないか等の話合いがなされた、右の集まりを含め、事件後三回位の集まりがあり、その際日石事件は、郵便局で爆発してしまつて失敗であつた、いろいろ改良してもう一度やるという内容の話合いがあつたことは事実である、旨供述している。

被告人もまた、第三回公判期日において前示のとおり、さきの供述を翻すに至つたが、さらに第一七、一八回公判期日においては右の事情を敷衍し、第一回公判期日において、公訴事実を認める供述をなした理由は、自分は当時も否認する意向を有していたが、弁護人より、多数の証拠があり、無罪となることは考え難く、むしろ執行猶予となる可能性もあり、少しでも早く社会復帰ができるようにした方が望ましく、被告人の周囲の人とも話し合つた結果、そのような結論となつた、との説得を受けたためである、取調の状況については、昭和四八年四月一四日江藤警部が取調に参加するまではずつと否認していたが、江藤警部は、紙とボールペンを渡して、事件のことを書けといつたので、二回やつていない旨否認の趣旨を書いたところ、突然その紙を丸めて自分の方へ投げつけ、ボールペンを飛ばし、叱りつけて、「最後のチャンスをやるから知つていることを全部書け」といわれていたため、取調官からそれまでに与えられていた情報に基づいて認める供述内容を書き、その後同月一六日より再び否認に転じたが、同年四月二一日再度江藤警部により取調がなされ、同人は大声をあげて、「お前だけが何もいつていないんだ、お前だけがそういうことをいつていると乗り遅れていちばん大きな事件になつちやうぞ。」といわれ、その際襟首を掴んで上下に振る暴行を受けたたため、やむを得ず自白したものであり、また検察官に対する自白も結局警察における取調の影響が残存していたため認める供述をしたものであつて、本件日石事件当日の自分の行動については、午前八時ころ勤務先の月島自動車へ出動し、午前八時三〇分ころから午前九時ころまで久保田運送の車両の仕業点検をなし、午前九時ころより約二〇分間に亘つて佃運輸の車両のタコメーター修理をし、引続き協栄運送の車両の板金、塗装等を一日中していた、その作業工程は、まず付属品の取外しにに三〇ないし四〇分、叩き出しに約一時間、午前一一時ころよりパテ塗り、自然乾燥を始め、下準備が終了したのが午前一一時三〇分ころ、その後特油商会へ塗料等の購入に赴き月島自動車へ戻つてから色合せをし、塗装が終了したのは午後三時三〇分ないし午後四時ころで、その後ブレーキ等の調整に約一時間を要し、午後六時ころには納車を完了しており、その間辻と一緒に昼食を摂つたりしたので、当日は月島自動車より外出する時間的余裕もなく、また現実に外出していない旨供述する。

六これに対し検察官は、仮に被告人をはじめとする共犯者の前示供述部分が事実に相違したものであつたとしても、それ以外の供述部分、すなわち、被告人についていえば、被告人が「サン」における謀議に参加したこと、その謀議に基づいて日石事件の当日、増渕、前林両名を新橋第一ホテル付近から習志野陸運事務所まで搬送した事実に関する供述部分については十分信用に値する旨主張し、その根拠として、まず総体的な事情情として、被告人が、(一)本件搬送後、榎下に対し、習志野へ行つた来た状況について具体的な話をしたことがある、(二)榎下から習志野陸運事務所の所在を質問されたことがある、(三)榎下に対し、爆弾のスイッチについて教示したことがある、(四)いわゆる土田邸事件の爆弾製造時に、榎下に伴われて増渕方へ赴き、見張をしたことがある、(五)平素増渕をとうちやん、前林をかあちやんと呼ぶ間柄であり、しかも増渕が別件で指名手配中であることを承知しながら交際を続ける等深い関係にあつたとみられる、(六)参考人として警察の取調を受けるようになつたころ、自己の友人に榎下との交際について口止めをしている、(七)昭和四七年一二月三一日日大二高において、堀からいわゆる土田邸事件について口止めをされている、以上のような事実を指摘し、これらの事実の存在することを前提として、さらに個別に被告人および各共犯者の供述の信用性につき、以下のとおり敷衍する。

(一)  増渕利行の供述について 増渕は一貫して自らの犯行の全体について認め、しかもその主謀者としての責任を認めていたものであつて、具体的場面においては共犯者をかばう態度をかなり明らかに示しこそすれ、無関係の者を共犯者として引きずりこむ必要は全くないのであつて、中村については、中村の利害に関することで何かを隠匿する必要があつて虚偽を述べたものであると考えられ、中村に関する搬送部分について信用性に疑いがあるからといつて、本件搬送についての増渕の捜査段階における供述のすべてについて信用性がないといえず、被告人についても、本件搬送をなしたればこそ、真実を述べて、被告人との共犯関係を明らかにしたものというべきである。

(二)  中村隆治の供述について 当時の中村の取調状況からして、中村の「サン」における謀議および本件搬送についての自白に至るままでの間、特に中村の弟が本件日石事件に関与しているか否かについて取調が及んだ事実はなく、もし中村が本件搬送につき全く無関係であつたのならば、弟をかばうため自己が搬送したとまで供述する必要があるような取調状況ではなかつたのであるから、中村において真実弟の犯行を隠ぺいするつもりであつたとすれば、それは中村において弟が本件に関与していた事実について具体的な認識を有していたものにほかならず、また被告人が「サン」における謀議の時期に、「サン」へ増渕らとともに集まつたことがあるか否か、判然記憶がないとの当公判廷における供述は、被告人の出席の事実を強いて否定していないのであるから、前記捜査段階における供述は信用し得るものであり、またその際の話し合いの内容についても、他の話題についての記憶がないにもかかわらず、運転免許の有無が話題になつたことを明瞭に記憶していることからみて、右会合の際運転免許の件が特別の話題となつたことを示し、「サン」における謀議についての中村の捜査段階における供述が具体的根拠を有することを示しており、さらに「サン」における謀議を最初に供述したのは中村であるところ、弟をかばうために榎下より運搬を引継いだことが虚偽の陳述であるとしても、捜査官において「サン」における謀議に関して何らの知識、情報等を有していなかつた当時の捜査状況からしても、そのことを真実らしくみせかけるためにわざわざ被告人までも登場させる必要はなかつたのであるから、結局実際に「サン」における謀議は存在し、被告人が搬送の一部を分担していたことを知つていたからこそ、中村が被告人に関する供述をしたといわねばならず、しかも中村の捜査段階における供述が迎合的なものでなかつたことは明らかであり、結局中村の被告人に関する供述は信用し得る。

(三)  榎下一雄の供述について本件捜査当初、増渕が本件についてごく概括的には認めていたものの、具体的な実行方法、態様等に関して捜査官に手持資料はなく、また関係者と目されていた堀は当日勤務に就いていたことが判明していたこともあり本件捜査は行き詰まりの状態にあつたところ、榎下が昭和四八年四月八日検察官に対し、本件日石事件当日の自動車運転を前林、堀より依頼されたが断わり、本件当日朝増渕、江口、堀が白山自動車へ集合し、堀運転の自動車で新橋へ向つた旨供述し、これが本件実行行為に関する最初の具体的供述あつて、本件捜査の出発点となつたものであるが、右の如き捜査の経緯からして、捜査官において右供述の如く追及したとは考えられず、むしろ捜査官において具体的に知り得なかつた事実であり、それは自己の経験事実の一部を自発的に供述したものと解さざるを得ず、また榎下の捜査段階における供述は前示の如く以後変転することはあつても、増渕、江口が白山自動車へ立寄つて、それから日石地下郵便局へ向つたことは一貫しており、この点の榎下供述は中村のアリバイとは無関係のことであつて、高度の信用性を有し、また本件当日まで榎下が爆弾を預つていたこと、榎下自身が白山自動車よりの搬送を担当したこと等、自己が直接関与ないし目撃した事項についての供述も以後一貫しており、これもまた高度の信用性を有すると解され、次に榎下が引継者として中村の名前を出したことに関しては、当初榎下は全区間を通じての搬送を供述していた時期もあり、中村が本件搬送に無関係であつたとしても、そのことから直ちに榎下が全く搬送していないということになるわけでもなく、敢て榎下が中村を引継者として出したのにはそれなりの事情があつたと解するほかはなく、それは中村と利害関係のある者または榎下自身の犯行を隠ぺいする必要があつて中村を登場させ、また中村も本件に何らかの関係を有し、本件搬送について知識を有し、榎下供述に符合する供述をすることが予測できる事情が存在したことが推測され、結局中村に関する搬送分担についての供述部分が虚偽であつたとしても、これ自体が榎下および被告人の搬送についての供述の信用性にまで影響を及ぼすものではない。

(四)  堀秀夫の供述について 堀の捜査段階における供述はきわめて詳細であり、体験した者でなければ知り得ないような具体的内容を含み、客観的事実と矛盾するような事項は含まれておらず、その信用性は高いものがあり、その供述経過も具体的な記憶を喚起しながら、自己の記憶に基づいて供述したものであり、本件搬送の謀議に関する供述は、終始本件当日三人が運転したことは知らないといいながらも、本件搬送に関する謀議の存在自体は認め、謀議の場所を「サン」ではなく「ボサノバ」としたのは、被告人が右謀議に参加したことを認めつつ、被告人とは「ボサノバ」で会つたはずであるとの記憶をもとにして謀議の場所を供述したものであるから、被告人が本件搬送の謀議へ参加した事実についての重要な証拠としての価値を有する供述であつて、信用性は高いものがある。

(五)  被告人の供述について 昭和四八年四月一四日付検面調書の被告人の自白については、捜察官は単に「新橋付近から女の人を千葉まで乗せて行つたか。」と追及したのみで、乗せて行つた人数は勿論、その氏名については何ら指摘していなかつたにもかかわらず前示のとおり自白し、また「サン」における謀議についても、「サン」を利用したことがあるか、との追及を受けるや、前示のとおり「サン」における謀議を供述したもので、ともに自己の経験した事実について供述したと解すべきであり、さらに同年四月一五日、検察官より増渕はどうしたかとの追及を受け、増渕も前林と一緒に習志野へ行つた旨供述したものであるところ、当時捜査官において増渕の本件当日の具体的行動について必ずしも明らかにされていなかつたものであり、また「サン」における謀議についても具体的かつ詳細に供述していることよりしても、これも自己の経験した事実を供述したものと解すのほかなく、またその後否認に転じたことについても、本件の如き重罪事件において否認を繰り返すことは通常みられることであつて、格別取り立てて異常とされるものではないばかりか、注目すべきことは、否認していた期間においても「サン」における謀議については一貫して認める供述をしていたのであり、しかもその否認の態度自体も一貫性を欠くものであり、さらに同年四月二一日の取調において、再び従来の自白をなしたのみならず、いわゆる土田邸事件についての関与事実までをも供述するに至つたが、これは捜査官において全く予期せざるものであり、また同年四月二四日の実況見分の際、中村は引継地点の指示ができなかつたにもかかわらず、被告人は明確に、自己の記憶に従い指示をなし、習志野陸運事務所の状況についてもほぼ正確な供述をなしていることよりしても、被告人がそこへ行つた経験があることが明らかであり、また被告人の第一回当公判廷における供述についても、それは自己の意思により否定するものは否定し、弁解すべきものは弁解する態度であり、「サン」における謀議の状況についても具体的かつ詳細に供述しており、また当時被告人は弁護人とも入念な打合せを済ませた後、任意に供述したものであつて、その供述は十分措信できるものである。

また被告人の本件日石事件当日のアリバイ主張については、本件当日のみで板金塗装等の作業をなしたとは限らず、捜査段階当時も被告人の当日の作業内容は判明していたのであつて、被告人は右作業をも考慮に入れたうえ、本件搬送のため外出したことを供述していたのであつて、右アリバイ主張は虚偽であり、被告人が本件当日少くとも三時間は外出することができた状況であつたから、結局被告人の捜査段階における供述は十分信用できるものである。

七検察官の前示各主張のうち、総体的な事実中、被告人が本件搬送行為ののち、榎下に対して増渕、前林両名を、習志野陸運事務所まで搬送した状況を話した、とする部分を除いては、仮にその主張のような事実が認められるとするも、それ自体では、被告人の「サン」における謀議への参加と、それに基づく搬送行為を認定し得るものではなく、結局被告人をはじめとする各共犯者の捜査段階における供述と、被告人の第一回公判期日における供述の信用性を判断するにあたつての資料となり得るものと解され、また被告人が参考人として警察の取調を受けるようになつたころ、友人に榎下との交際について口止めをしたとの点を除き、その余は前示被告人と榎下との間で交されたとする搬送に関する会話をも含め、他の独立した証拠に基づいて、動かし難い事実として認定されているわけではなく、畢竟被告人をはじめとする各共犯者の捜査段階における供述によつて認定し得るにすぎないのである。そしていまは、これら事実の存否をも含めた供述の信用性を爼上に乗せているのであるから、その判断の対象となるべき供述の一部を抽出し、これを動かし難い前提としたうえで、当該供述の信用性を云為することは意味がない。従つて、まず右の諸点をも含む、被告人および共犯者の前示供述に関し、個別にその信用性を検討する。ただ被告人が友人に対して口止めをしたとの点は、証人箕輪功の当公判廷における供述によれば、若し警察官が箕輸のところへ事情を聞きに来た場合には、何も知らないと答えてほしい旨依頼した事実を窺知し得ないではないが、刑事事件に関して取調を受けるようになつた際、その者が事件に真実関与しているか否か、被疑者であるか参考人であるかにかかわりなく、極力累が及ぶのを避けるような態度を示すことは、その是非は別として往々あり得るところであり、右の事実が窺われるからといつて、直ちに被告人の自白の信用性を担保するに値する状況とは認められない。

ところで、供述の内容が幾多の事項にも亘つている場合、そのうちにたまたま明らかに事実に相違する部分が存在するとしても、ただそれのみの理由で、直ちにこれと直接関係のない事項に関する供述部分の信用性まで一律に排斥することは相当でなく、その余の点についてはさらに諸種の事情を勘案したうえ、信用性の有無を判断すべきであることは検察官指摘のとおりである。しかしながら、一般には右の見解を是認するとしても、事実に相違する供述のなされるに至つた経緯、その供述の内容が事件全般の中で占める質的、量的重要性の割合、その供述と他の供述との要証事実に対するかかわりの程度、これらの事情の如何によつては、他の供述部分の信用性に重大な影響を及ぼすことは否定し難い。そして明らかに事実に相違すると認められる供述部分が、きわめて具体的かつ詳細であつで、あたかもその事実を直接体験した者でなければ表現し得ないような内容の描写を含んでいることおよびそれが単に多数の共犯者のなかの一部の者にとどまらず、これに関係するすべての者を通じで同様内容の供述がなされているということは、決して軽視し得ないところであり、たとえその他の供述部分が、具体的かつ詳細であつて、一見その事実を直接体験した者でなければ表現し得ないような内容の描写を含んでおり、各共犯者の供述内容が一致していたとしも、右と同様の理由によつて、当該事実の存否については疑問を抱かせる余地が存することは否み得ないであろう。結局他の動かし難い客観的な事実と対比しつつ判断するほかはない殊に被告人の場合、事実に相違する前示各供述部分は、新橋第一ホテル付近において中村隆治から引継を受けたとされるものであり、その引継者が何人であるかは、事件の推移のうえで深い脈絡を有する事柄であつて、法律的にはともかく、実際上本件の核心に触れる部分と称して差支えないものであるから、前示のような事情が、供述の信用性の判断にあつて及ぼす影響は、他の共犯者に対する場合と同日に論ずることができないのも、またやむを得ない次第である。

八(一)  増渕利行  同人の捜査段階における供述は、前示のとおり本件搬送の事実について詳細かつ具体的に供述し、また同人自身も現実に本件爆弾搬送の任にあたつた者とされているのであつて、その供述は重要な証拠たり得ることは勿論であるが、榎下、中村、被告人のリレー搬送を供述しているものの、被告人の引継、搬送状況に関する供述は、他の供述部分と対比するときわめて抽象的であるうえ、本件日石事件において榎下より搬送を引継ぎ、前林と合流し、前林、江口両名において爆弾を差出し、被告人へ機送を引継ぐという本件搬送に関する核心的部分を担当したとされていた中村に前述の如くアリバイが存するにもかかわらず中村搬送を供述していることよりして、榎下の搬送部分についてはともかく、被告人への引継運送に関する供述部分が果して真実を語つたものであるか否かについては多大の疑問が存するところであり、これと「サン」における謀議に関する同人の捜査段階における供述自体が最初に供述されたものではないこと、榎下、中村隆治、被告人らの供述内容と細部においてかなりの相違が認められることも考え併せると、被告人が「サン」における謀議へ参加した旨の供述の真偽についても、疑問をさしはさむ余地があることは否み難いところであり、結局同人の捜査段階における供述をもつてしては、未だ被告人の本件犯行を認定するに足りる証拠たり得ないといわざるを得ない。

(二)  中村隆治  同人の捜査段階における供述中、本件搬送に関する供述は前示のとおり、事実に相違し、しかも被告人に関する限り、事件の核心に触れる部分であるばかりでなく、殊に被告人の本件搬送に関する部分については、中村より被告人へ搬送引継がなされたこととして捜査が進められ、同人の捜査段階における詳細かつ具体的な供述が、被告人の本件行為の存在の嫌疑を増大させるに寄与したであろうことは明らかであり、また「サン」における謀議について最初に、しかも詳細に供述したのも同人であり、同人の捜査段階における供述の信用性の判断にあたつては、特に慎重に判断する必要がある。

右の事情に加えて、中村の捜査段階における供述が、日石事件に関しては、まず本件当日の搬送に関する状況についての供述から開始されていることは看過し得ない重要事項として考慮する必要があろう。また同人の自白の動機について実際には中村の弟が中村に代るべき地位にあつたとする検察官の指摘は、一つの可能性としてとは考慮し得ないわけではないが、この点は当公判審理において、検察官自身何ら積極的に主張、立証していないところである。また「サン」における謀議についての、最初のかつ詳細な供述者が中村であることは明らかなところ、捜査段階の供述における同人の役割分担が、被告人への引継というものであり、また本件の如き緻密な計画的犯行の際には、事前に周到な謀議がなされるであろうことは当然予想されることであつて、被告人も本件に何らかの形で関与するとすれば、その謀議への参加は欠くべからざるものであり、もし当日たまたま「サン」での謀議に参加していないとすれば、他日被告人と共犯者との間で謀議がなされたか否か、並びにその状況について、捜査官の厳しい追及がなされたであろうことは、当然予測できるところであるから、中村が「サン」における謀議へ被告人が参加したことを積極的に供述したことは、当時の同人の立場よりすれば格別異常なものと解されないものがあり、却つて同人の当公判廷における供述によれば、「サン」における謀議があつたとされる同じ時期に、増渕、堀、榎下、中村の四名が「サン」に集合した事実があること、その席上増渕より中村の運転免許証の有無につき質問がなされたこと、また本件後数回日大二高に集まり、被告人の出席はなかつたものの、具体的な討議がなされ、日石事件の反省とともに、いわゆる土田邸事件の準備活動がなされ、中村が土田邸事件に増渕らとともに関与していたことを供述していることからみても、右の諸点についての同人の当公判廷における供述の信用性は相当高く評価し得るところであり、たしかに検察官指摘の如く「サン」における謀議の存在自体については肯定的供述と受け取れないではない。しかしそれにしても、前示のとおり、その際被告人がいたか否かについては記憶がない旨供述しているのであつて、このことは他の事項についてはかなり明確な供述をしていることと対比し、また中村の捜査段階における供述は、「榎下より電話連絡を受けて白山自動車へ赴くと、榎下と被告人がいて、三人で「サン」へ向つた。」というものであることや、被告人が中村より引継を受ける立場にいたのであるから、もし被告人が出席していたのであれば、中村において被告人の言動等に関する何らかの記憶が残存していると考えるのが常識であること、中村の当公判廷における供述が、特に信用性について疑問が存すれば格別、その供述態度を観察すると相当程度信用性が認められることより、同人の当公判廷における供述が直ちに虚偽のものであると断定することはなお躊躇せざるを得ない。従つて、中村のアリバイ調査の端緒が前示の如きものであることも併せ考え、前記諸事情を総合的に考慮するときは、中村の前示捜査段階における供述中、他の共犯者はともかく、少くとも被告人に関する限り、「サン」における謀議に参加していたとする供述部分は、未だその事実を認定するに値するほど、信用性の高いものとはいい難い。

(三)  榎下一雄  同人の四月八日の検察官に対する供述、すなわち本件日石事件当日の朝、増渕、江口、堀が白山自動車へ集合し、堀運転の自動車で新橋へ向つた旨の供述が、日石事件の搬送状況に関する最初の具体的供述であり、かつそれが榎下の任意、自発的な供述で、自己の経験事実の一部を供述したものと解され、同人の供述が以後変転することはあつても、増渕、江口が白山自動車へ立ち寄り、それから日石本館内郵便局へ向つたことは一貫して供述しており、この点についての同人の捜査段階における供述の信用性は、検察官指摘の如く高いものがあるとみられ、また本件日石事件当日まで同人が爆弾を預つていたこと、同人自身が白山自動車よりの搬送を担当したこと等直接自己が関与ないし目撃した事項についての供述も一貫しており、これらの点につき高度の信用性があると考えられることも検察官指摘のとおりである。

ところで、榎下は当初全区間を通しての搬送を供述していた時期もあり、同人自身が搬送したことは一貫して供述していること等の事情からみれば、中村が本件搬送に無関係であつたとしても、その一事をとらえて直ちに榎下が搬送行為をしていないということにならないことは、まさに検察官の指摘のとおりであつて、榎下において引継者として中村を登場させたについては何らかの隠された事情が存在したのではないか、と推測し得ないでもない。

しかし、榎下が被告人へ直接引継いだり、あるいは中村に代るべき中間の人物が存在することについて、検察官は氏名不詳者というだけで何ら積極的に主張、立証をせず、被告人は榎下より中村を通じ増渕らを引継いだとする証拠しか存在しないわけであるから、榎下の被告人の本件搬送に関する供述は、自己が直接目撃、体験した事実ではなく、また事件後、被告人との間で搬送に関して交された会話の内容も、中村隆治の搬送を前提としてなされたかの如き措辞であることを勘案すると、同人の前示捜査段階における供述をもつてしては未だ被告人の本件搬送行為を認定するに足りない。

また、「サン」における謀議に被告人が参加したか否かについても、榎下は前示の如く、捜査段階において、その状況等を具体的かつ詳細に供述するところではあるが、一方検察官も指摘するが如く、本件における共犯者の捜査段階における供述の信用性を判断するにあたつては、誰が最初に、如何なる事項について供述し、またそれは捜査官において既に了知していたものか否かが、重要な一資料たり得るところ、「サン」における謀議についての最初の供述者は中村であつて(なお証人石崎誠一の当公判廷における供述中には、右と異なるが如き供述も存するが、本件の如き複数の被疑者の存するきわめて重大な事件の捜査において、取調担当者が、他の取調官が担当している別の共犯者の供述の程度、内容について一切知らなかつたとすることは、容易に措信し難い。)、榎下が「サン」における謀議についての最初の供述者ではないこと、また本件では「サン」における謀議についての共犯者の捜査段階における供述の経過は前示のとおり、まづ本件搬送状況についての供述が先行し、その搬送に関する供述ののち、本件の如き緻密なアリバイ工作をも含む犯行の遂行にあたつては、当然周到な事前謀議が必要とされることはいわば常識ともいい得るところから、事前謀議の有無およびその状況についての追及がなされ、その結果「サン」における謀議に関する供述がなされるに至つたと認められるのであるから、同人の捜査段階における供述中、「サン」における謀議に関する部分のみを抽出して、その信用性を云為することは必ずしも相当なものとはいえず、他の証拠とも比較検討して判断しなければならない。

(四)  堀秀夫  同人は、「サン」における謀議がなされたとされる略同じ時期に、「サン」以外の場所で、増渕、堀、榎下、中村、被告人が集まり、新橋へ爆弾を運ぶ手筈を確認し、増渕より榎下、中村、被告人に当日の運転についての指示がなされたが、その内容については記憶しない旨、捜査段階において供述している。たしかに同人は、検察官の取調は、自分の主張を認めてくれる状況のもとにあつたと供述しており、信用性も高いように見られなくはない。しかし謀議のなされた場所は、「サン」ではなく「ボサノバ」である旨供述しており、この点は被告人をはじめとする他の共犯者の供述と全く相違するところである。そして受命裁判官の検証調書および証人楢原誠に対する受命裁判官の尋問調書によれば、「サン」と「ボサノバ」は、場所的にこそ近接しているものの、店の外観的模様、店内の規模、構造、雰囲気は、事件後「サン」が改装されたという点を考慮に容れても、大きく異つていて、現実に双方を訪れた経験のある者であれば、容易に異同の識別をつけ得るものであつて、錯覚を生ずるおそれはきわめて少いと認められる。従つて同人の「ボサノバ」において集まつた旨の供述を目して、これは単に「ボサノバ」と「サン」の場所を取り違えて述べているにすぎず、右供述は畢竟「サン」における謀議を述べた趣旨であると解釈するにはなお躊躇せざるを得ない。加え、同人の「ボサノバ」における会合の状況にしても、謀議の具体的内容、その際の状況等に関しては記憶がない旨供述していること、また本件搬送に関する謀議については、同人が最初に供述したものではないこと等の事情を併せ考察すると、同人の捜査段階における供述をもつてしては、未だ被告人の「サン」謀議への参加を認定するに足る証拠とはなし難い。

(五)  被告人

1 被告人は、捜査段階において詳細な自白をしているのみならず、第一回公判期日においても公訴事実をほぼ全面的に認め、概ね捜査段階における自白に添う供述をしているのであつて、その点から考察する限り、右供述の信用性は高いとする検察官の主張も一応首肯し得ないではない。

2 しかしながら、そのいずれの段階における供述にしても、日石事件当日は搬送は、新橋第一ホテル付近において中村から引継を受けたとする内容のものであるところ、中村から引継を受けたとする具体的な供述部分は明らかに事実に相違し、しかもその点は、被告人にとつてはいわば事件の核心に触れる重要な部分であることは前示のとおりである。殊に、第一回公判期日における供述の如きは、如何に事前に弁護人と打合せをしたうえ、公判廷において全く任意になした供述であつたとしても、その重要な事項について事実に相違する部分が存する以上、そのような供述をなすに至つた責が何人にあるかということにはかかわりなく、また供述の際の状況がどのようなものであつたかにもかかわりなく、その供述部分の信用性は排斥されざるを得ないし、これと同様の理由によつて、捜査段階における同旨の供述部分の信用性も排斥されざるを得ない。そしてこのような事情は、前示のとおり他の供述部分に関しても、その信用性を判断するにつききわめて慎重な態度で臨むことを余儀なくさせるものである。

3 ところで被告人は、検察官も指摘する如く捜査段階において、いわゆる土田邸事件に関し、増渕らが爆弾を運搬する当日、同人らを九段下から神保町の郵便局まで搬送したことがある旨供述した事実が存する。しかもこの供述については、検察官自ら捜査官としては、被告人に関する限り何ら取調の対象としておらず、従つて全く予期しなかつた供述である旨主張している。しかしながら、右供述は後日被告人において撤回し、一方捜査官としてもそれが事実であることの裏付もなかつたことから、不問に付されたまま今日に及んでいると見られるのであるが、被告人のいわゆる土田邸事件における右のような供述は、もしそれが事実とすれば、被告人にとつてきわめて重大な結果を惹起するであろうことは容易に推察し得るところであるにもかかわらず、比較的容易に供述の変遷が見られるのであつて、その供述の真偽は措くとしてもこのような供述態度自体信用性判断の一資料たり得るであろう。

4 次に被告人は、捜査段階特に警察における取調の状況につき、第一七、一八回公判期日において前示のとおり具体的に述べている。そして捜査段階における取調の状況如何も、供述の信用性を判断するうえでの参考たり得ることはいうまでもない。被告人の供述内容の真偽についてはさらに慎重な検討の余地はあろうが、これとは別に証人根本宗彦の当公判廷における供述によると、同人は警視庁警部補であつて、昭和四八年四月一三日より被告人の取調を担当し、同日被告人を逮捕したこと、その嫌疑は本犯のアリバイ工作のため自動車に前林らを乗せて搬送し、「サン」における謀議にも参加しているという内容であること、中村、榎下はすでに自白しているときいていたこと、同日の取調では、日石事件当日女の人を乗せて新橋駅付近から千葉方面へ乗せて行つていないかと追及したが、被告人は一日中月島自動車で修理作業をしていた旨弁解したこと、翌一四日午後九時三〇分ころ、同人の上司である江藤警部が取調に加わり、被告人を説得したが、被告人はどんどん首を下げるので、江藤警部は声を大にし、人が話をしているときは相手の顔をよく見るようにいつたが、それでも被告人は首を上げようとしなかつたこと、そのため同警部は、「じやあ僕も立つから君も立て。」といつて両人とも立ち、手を被告人の肩において、「いう勇気がなければ書いてみたらどうだ。」といつて、紙とボールペンを与えて被告人を着席させ、被告人が二度に亘り否認の内容を書くと、その度に、「こんなことを書けといつているんではないんだ。君が本当のことを書くというから紙を与えているんだ。紙を無駄にするな。」といつて、三枚目の紙を渡したうえ、「女を乗せてお前は千葉へ行つているじやないか。」と追及したこと、また同日堀、榎下と一緒に「サン」へ行つていないかと追及したこと、被告人は「増渕と女二人(あるいは女一人かもしれない)を乗せて習志野陸運事務所へ行つた。日石事件のアリバイのためです。「サン」でいわれたことです。集まつたのは、堀、榎下、中村、増渕です。」という内容の供述書を作成したこと、ところが翌一五日、被告人は再び否認したので、追及すると再び習志野へかあちやんを乗せて行つた旨供述するに至つたこと、その日は検察庁での栗田検事の取調に対し詳細な供述をなし、検察庁より戻つての取調に対し、被告人は外堀通り近くの新橋の大ガードの手前で中村の青いサニークーペより引継いだ旨供述したこと、しかし同人(根本警部補)は当日午前中に中村の四月一二日付員面調書を読んでいたので、新橋駅近くで引継いだのではないかと追及したこと、翌一六日になると、被告人は「実は習志野には行つておりません。」と再度否認し、それまでの供述は新聞報道による知識と取調官の追及から想像して答えたものである旨弁解し、併せて榎下より習志野陸運事務所について訊かれたこと、「サン」で運転を頼まれ断わつたことについては供述していたこと、ところが同年四月二一日午後九時三〇分ころより再び江藤警部が被告人の取調にあたり、被告人に対して勇気を出していうように説得したり、土田邸事件で死亡した土田民子について被告人の手をとつて話すと、被告人は「許して下さい。」と泣き出し、その後を受けた根本警部補に対し、習志野への搬送、土田邸事件の爆弾製造時の見張り、その郵送の際九段下より搬送したことを供述したこと、同年四月二三日同人において、引継場所とされる大ガード付近は交通量が多く引継場所としては適当と考え難いと不審に思い、被告人に対し違うのではないかと追及したところ、被告人は引継場所を第一ホテル付近へ変更する供述をなすに至つたこと、以上の事実が認められる。

被告人の前示供述と証人根本宗彦の当公判廷における供述とを対比してみると、少くとも、被告人に対する取調が開始されてから、昭和四八年四月一四日午後九時三〇分ころ江藤警部が来るまでは否認を続けていたこと、同日江藤警部が被告人に対し、事件のことを書くように指示して紙とボールペンを手渡したこと、被告人は二度に亘つて否認の内容を記載したこと、同警部はそれを受理することなく、さらに再度書くように指示し、三枚目において初めて「サン」における謀議と、それに基づく搬送の事実のごく概略を手記したこと、被告人は四月一六日根本警部補の取調に際しては再び否認に転じたこと、四月二一日午後九時三〇分ころから再び江藤警部が取調にあたり、その際同警部の強い説得によつて自白に転ずるに至つたこと、以上の事実は概ね一致しているところである。もとより重大な事件の被疑者にとつて、心理的動揺はつきものであつて、そのため一旦自白したものが再び否認に転ずる等供述に変遷が見られるのも通常あり得ることであり、また当裁判所としても、被告人に対する江藤警部の前示のような取調を目して違法と断ずるものではないし、それによつて得られた被告人の自白の任意性を否認するものでもないが、前示のとおり否認から自白への供述の変遷が、捜査官の厳しい取調の状況と一見符節を合しているかの如く窺われることは、被告人の前示いわゆる土田邸事件の搬送に関する供述態度と相俟つて、自白の信用性を判断するにつき、無視し去つて差支えない事項であるか否かは問題である。

5 昭和四八年四月二八日付司法警察員石島勇作成の実況見分調書によれば、同年四月二四日に施行した新橋から習志野陸運事務所までの実況見分に際し、京葉道路から右陸運事務所に向け左折する個所を指示、特定し得なかつた事実が明らかである。検察官はこの点に関し、被告人は本件搬送が習志野陸運事務所までの初めての運行であり、しかも前林の指示によつて走行したものであるうえ、搬送の日から実況見分の施行日までの間に、一年半余を経過しているばかりでなく、経路も多くあつて特定し難い道路状況にあるから、被告人が実況見分の際、指示、特定し得なかつたとしても、敢て異とするに足りない旨主張する。しかし前示実況見分調書によれば、被告人は京葉道路から左折する地点を特定し得なかつたにとどまらず、同所から習志野陸運事務所に至るまでの間、その経路について何ら具体的に指示していないのであつて、僅かに、右陸運事務所近傍において、陸上自衛隊習志野駐とん部隊演習所内のアンテナを見て、あれを想起した旨、また同事務所の周囲の様子に見覚えがある旨洩した記載が存するにすぎない。京葉道路から習志野陸運事務所へ向う経路は、かなり多くの路線があることは検察官主張のとおりであつて、本件搬送当日、被告人としては初めての経路であり、かつ専ら同乗者の指示によつて走行したものであるとされていることを考慮すれば、実況見分の際、左折の地点を特定し得なかつた事情はあながち不合理とはいい得ないにしても、およそ日常車両整備の業務に従事し、車両の運転経験も深いものが、相当長距離を長時間走行し、しかも帰路は何人の指示も受けず通常の所要時間で帰社している以上、その間の若干の目標なりとも想起して特定し得るのが常識に合致する所以ではないかと思料される。従つて、実況見分の際、被告人が京葉道路以降の目標となるべき個所を特定し得なかつた理由が、果して検察官主張のとおりであるか否か疑問なしとしないのみならず、仮に左折地点を特定し得なかつたのが、検察官主張のとおりの事情によるものであつたとしても、そのことはこれをもつて、被告人の本件搬送の事実を否認する根拠たり得ないというにとどまるものであつて、実況見分の際、特定し得なかつたという事実自体は、被告人の本件搬送行為を積極的に認定すべき資料としての価値を有するものではない。

6 前示実況見分調書および証人栗田啓二の当公判廷における供述によれば、前示実況見分に際して、被告人は、本件搬送に関する中村からの引継場所を何ら躊躇することなく、通称第一ホテル前通り堤ビルディング前の渋谷行バス停留所の後方九メートルの地点を指示した事実が認められる。他方、被告人の昭和四八年四月一五日付員面調書によれば、右引継の場所は単に新橋駅近くのガードというにとどまり、また実況見分施行前日である同月二三日付検面調書によれば、「サン」における謀議の際、引継場所として指示されたのは第一ホテル前であつたように思う旨供述し、それに添つた内容を図示した図面も作成している。さらに右実況見分施行の翌日である同月二五日付検面調書においても、謀議の際指示された引継場所は、第一ホテル前であつた旨供述し、捜査官より予め指示されていた引継場所と、実際に引継を受けた場所の異つている点を追及されるや、「多分その当時、第一ホテル前には車が駐車していて停められなかつたからであると思う」旨説明している。

以上によれば、被告人が実況見分の際引継場所として指示した点は、「サン」における謀議の際指示されていた地点ではなく、本件搬送当日、たまたま本来の引継場所とされていた第一ホテル前は、他の車両の駐車の関係で移動せざるを得なかつたものとみられる。しかも受命裁判官の検証調書によれば、被告人が指示した地点とても常に駐車し得るとは考えられず、同地点において駐車し得るか否かも、その際の状況如何に左右されることが明らかである。このように、他の車両の駐車の如何によつてその場所を移動せざるを得ず、その移動先も必ずしも明確でないこと、そして第一ホテル前ないしその付近であれば、常時そのような事態に遭遇するであろうことは同所付近の地理を知るものであれば、容易に予測し得ることであつて、引継場所としてはきわめて不適当といわなければならない。予め緻密な謀議をなし、引継のため待合せ時刻まで綿密に指示していた、とされることと対比すれば、如何にも疎漏であるとの感を禁じ得ない。

しかも実況見分の際指示した地点は、被告人としては、右のように予め指示されていた場所ではなく、他の車両によつて余儀なく移動した地点であつて、いわば予想外の事態であろうと推認されるにもかかわらず、実況見分施行前の供述調書には、そのような供述は見受けられず、僅かに実況見分施行の翌日の検面調書において、捜査官からの指摘によつて初めて説明しているにすぎない。このような事情を考慮すると、実況見分の際被告人が特定の地点を指示した事情があつたとしても、それが被告人のその場の思いつきでなかつたか否か、果して検察官主張の如き重大な意味を有するものか否か、疑問がないとはいえない。

7 被告人の昭和四八年四月一五日付、同月二四日付各員面調書及び同月二三日付検面調書によれば、被告人が習志野陸運事務所の構造等について簡単な説明をなし、同時に図面にその略図を記載して調書に添付している。そしてその図面は略図というにも足りないほど簡略なものであつて、対象となる建造物および周囲の状況を特定し、説明するためのものとしては実質的に意味を持つとは考えられない。およそ捜査官が取調を行うにあたり、供述者をして図面等を記載させる目的が、その図面等によつて供述を補い、内容の理解をより明瞭かつ容易ならしめるためと、さらに供述者自ら直接体験した事実に基づいて他にはない特徴を記載させることにより、供述の信用性を担保することも含まれているとすれば、当然その目的に添うべく捜査官として鋭意努力するであろうことは容易に想定し得るところである。特に被告人の場合、習志野陸運事務所へ赴いた事実が存するか否かは、事件の成否に関するきわめて重要な事項であり、しかも本件搬送当日以外は、同事務所へ赴いたことがないというのであるから、折角被告人がその事実を供述し、図面の記載まで応じている以上、可能な限りその目的に添つた内容の記載をするよう努めたと思われるのに、その程度の記載にとどまつたことは、真実自己の認識した事実に基づいて記載したと認めるか否かは問題である。加えて、被告人が供述調書中において説明している建物の構造、周囲の状況もごく概略のものにすぎず、しかも昭和四九年四月一七日付司法警察員三浦司郎作成の写真撮影報告書によつて認め得る、東京都陸運事務所練馬、足立、多摩各支所、品川本所の建物の構造および周囲の状況と、当裁判所の検証調書によつて認め得る習志野陸運事務所のそれとを比較すると、東京都陸運事務所の本所、各支所のうち、明らかに類似していないのは多摩支所のみであつて、他は概ね類似していることが明らかである。そして被告人は、習志野陸運事務所はともかく、東京都内の各陸運事務所の構造については、かねて知悉しているところであるから、当公判廷における、「大体陸運事務所は似ているので、習志野陸運事務所の模様についても、東京都陸運事務所各支所を念頭において書いた。」旨の被告人の弁解も、あながち荒唐無稽の強弁として排斥することはできない。

8 証人中村隆治の当公判廷における供述によれば、前示のとおり、本件日石事件から一週間位経過したのちの夜、日大二高へ増渕、堀、榎下、松村、中村が集まつたのをはじめとして前後三回位同様の会合があり、その席では、日石事件の反省と、さらに新しい爆弾製造による再度の犯行に関して討議がなされた事実が認められるが、被告人は一度も右会合に出席しておらず、また出席を求められた形跡も存しない。しかし右の会合は、討議の内容から推して増渕ら関係者にとつては重要な意義を有するものと認められるにもかかわらず、日石事件に関与したとされる被告人が全く出席することがなかつたことおよびその間の事情が何ら明らかにされていない点は、少くとも被告人が日石事件に関与したか否かを判断するうえで参酌に値する事情といい得る。

9 さらに被告人は、日石事件当日のアリバイを主張している。証拠上アリバイが認め得られれば、他の点について判断するまでもなく、被告人の無実が明らかとなることは勿論である。しかして証人辻道雄、同高田忠勝の当公判廷における各供述によると、問題とされている本件日石事件の前々日受付けたフロント右フエンダーおよびグリル板金、フェンダー塗装、四輪ブレーキ、エンジン、クラッチ各調整の作業については、日曜日である昭和四六年一〇月一七日に作業をなしたとは考え難く、むしろ同人らの記憶自体としては、被告人は、本件当日朝より右作業を開始したものと思われ、本件当日被告人が月島自動動車を抜け出し、少くとも三時間以上連続して不在であつたか否かについて具体的に明確な記憶はないものの、右作業については月島自動車においては被告人のみしかなし得ない作業であつて、被告人が担当したことは間違いなく、その作業量については被告人の日頃の作業状況をも考慮すると、ほぼ一日全部を要する作業量であり、また被告人は仕事中に外出することは今までの記憶においても殆んどなかつたこと等の事情からして、連続して三時間以上外出することはなかつたと考えられ、また当日付の特油商会より塗料等購入の領収証が存在しているが、これは当日購入に出かけた時間は判然としないものの、被告人が本件作業に関連して少くとも塗装作業に取りかかる前に購入してきたものと考えられ、また辻、高田両名の捜査段階における供述については、当初捜査官に対し、被告人は本件当日ずつと月島自動車にいたと供述していたが、後になつて捜査官より被告人自身が当日外出していると供述しているといわれたため、本人がそういつているのならば、そういうこともあつたかもしれない旨供述した。すなわち被告人が外出したことが事実であるとの前提で供述したものであり、そのようなことを一切考慮せずにに、当日の作業量から考えれば被告人が長時間にわたつて外出することはほぼ不可能である旨供述している。右各供述については、被告人は月島自動車における検査主任として唯一の有資格者として、欠くべからざる存在であることの事情も考慮して、その信用性を判断することが必要であることは勿論であるが、一方両名は、記憶としては本件日石事件当日被告人が長時間外出しなかつたと、明瞭にはいい切れないこと、被告人が当日昼ごろ特油商会へ赴いたとの明確な記憶はない等自己の記憶にない事項についてはない旨率直に供述する等その供述態度は真摯であつて、強いて虚偽の陳述をなそうとする態度も窺えず、却つていわば客観的な資料と考えられる月島自動車の作業伝票類、特油商会の領収証等に基づいて供述していることから、その供述の信用性は高いものがあるといわざるを得ない。これによれば、被告人が本件日石事件当日間断なく月島自動車にいたことは積極的には認定できないが、同時に検察官主張の如く、被告人が外出した可能性は全く否定し得ないとしても、むしろ当日の被告人の作業量からすれば、長時間連続して外出する機会はなかつたのではないかとの合理的疑いを容れる余地が存することも否定し難いところである。

このように、被告人のアリバイが完全に成立したことは認められないとしても、その点について合理的な疑いを容れる余地が存する以上、延いて被告人の捜査段階および第一回公判期日における供述の信用性に影響を及ぼす結果となるのも当然である。

10 以上に加え、被告人の捜査段階における供述は、他の共犯者にはみられないことであるが、前示のとおり二転、三転して必ずしも一貫性をもたないこと、中村がアリバイ調査を思いたつた動機が前示の如く、被告人は自白の調書を作成しながらも、取調べを離れた際にはなお捜査官に対して否認の言辞に出ていたこと等の点をも併せ考慮すると、被告人の捜査段階および第一回公判期日における供述の信用性については種々の疑問点が存し、延いては被告人の「サン」における謀議への参加についても、合理的な疑いをさしはさむ余地が存することは否定できず、また中村は当公判廷において証人として供述した際においても、「サン」における謀議の時期に、増渕、堀、榎下、中村が「サン」へ集まつたことは認めているにもかかわらず、ひとり被告人については記憶がない旨供述していること等前示の事情をも参酌すると、被告人の捜査段階および第一回公判期日における供述中、「サン」における謀議へ参加したことに関する供述には、虚偽の事項が含まれているのではないかとの疑いは払拭し得ないものがあり、被告人の捜査段階および第一回公判期日における供述は、容易に措信し難いものがあると断ぜざるを得ない。

第五結論

本件は、榎下より中村、中村より被告人と順次搬送者が交代するという方法によりなされたものとして、捜査、起訴がなされた事案であるところ、本件搬送において最も重要な、核心的部分を担当したとされていた中村隆治について、アリバイ調査という初歩的な捜査を懈怠し、その結果前述の如く共犯者の捜査段階における供述に重大な空白を招来させたものである。しかも被告人は中村より直接引継を受けたとして起訴されたものであつて、形の上でこそ被告人が本件幇助に及んだとの証拠も多々存し、その疑いは種々存するものの、幇助の行為と表裏一体の関係にあると認められる被告人の搬送に関する中村、榎下、堀、増渕の捜査段階における各供述には、前示の如き種々の疑問が存し、殊に中村のアリバイが成立したことにより、被告人に関する供述の信用性についてきわめて重大な影響を及ぼす結果となつたのはやむを得ないといわざるを得ない。さらに加うるに、後に被告人が主張するに至つた、本件日石事件当日のアリバイ主張についても、これを虚偽のものと断定し得る資料に乏しい等前示の如き事情が存するので、延いては検察官提出にかかる前示各証拠の信用性につき、合理的な疑いをさしはさむ余地が生じることも否定し難いところである。

従つて、その余の点について判断するまでもなく、被告人に対する本件公訴事実について、検察官は合理的疑いをさしはさむ余地なく立証を尽くしたとはいい得ず、結局本件は犯罪の証明がないことに帰するから、刑事訴訟法三三六条に則り、被告人に対し無罪の言渡をする。

よつて主文のとおり判決する。

(近藤暁 桑原昭熙 大渕敏和)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例